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■601号 平和憲法守るまち目黒
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政治犯釈放
私の義父は、治安維持法犠牲者の一人です。
1943年5月に検挙され、獄死せず1945年10月釈放されました。
目黒6中に復職
1946年12月、目黒銀座と目黒区役所の間に住んでいた義父は、目黒区立碑尋常高等小学校に復職し、翌年4月、目黒6中に転勤しました。
戦後教育の原点
当時、6中の新卒教諭だった方から、先日、戦後教育の原点ともいえる当時の状況を聞きましたが、6中にはもう一人の治安維持法犠牲者がいたらしいというのです。
8月18日、Eテレで、「自由はこうして奪われた〜9万9795人の記録が映す治安維持法の全貌〜」が放映されます。
治安維持法
1925年から20年間にわたり施行された治安維持法。敗戦時に資料の多くは処分され、国をあげた人権弾圧の全貌は明らかにされていません。
法律の乱用
為政者が、法律を拡大解釈・乱用して、国の政策に批判的な人々だけでなく一般市民の自由まで奪っていくプロセスが浮き彫りになってきました。
国は謝罪を
現代の治安維持法ともいわれる共謀罪が焦点となっていた昨年の通常国会。法務大臣は、「治安維持法は当時適法に制定され適法に執行された」と言い放ちました。
目黒200人?
拷問で虐殺されたり獄死した人が194人、獄中で病死した人が1503人、逮捕された人は数十万人におよびます(治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟調べ。Eテレ調査からは人口比で目黒区でも犠牲者は200人いたことになります)。
いつか来た道
治安維持法犠牲者など関係者は、国会請願や地方議会に陳情を提出し訴えていますが、犠牲者・被害者に対する謝罪や名誉回復、賠償はいまだに行われていません。
歴史に向き合わない政治は、戦争する国づくりへと、いつか来た道を突き進むことになります。
目黒の学童疎開
区は今、庁舎1ロビーで戦争展をやっています。
昭和初期からの暗い影が、日中戦争、太平洋戦争となり、目黒でも1944年10月には国民学校児童が山梨と福島県に集団疎開させられました。
罹災10万人
目黒は、空襲で3割を焼失。死者291名、負傷者1553名、全焼家屋2万6095戸、罹災10万3425名、人口の4割が減少しました。
広島特派員
8月6日の目黒区平和のつどいで、広島特派員のある中学生が米朝首脳会談に触れていました。
朝鮮半島の非核化と朝鮮戦争の終結・平和体制構築へ動き出しています。
平和憲法擁護し核兵器のない平和都市目黒をつくることの大切さを、沖縄県翁長雄志知事の遺志とともに実感しています。
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